昭和55年08月10日 朝の御理解



 御理解 第75節
 「人を殺すというが、心で殺すのが重い罪じゃ。それが神の機感にかなわぬ。目に見えて殺すのは、お上があってそれぞれのお仕置きにあうが、心で殺すのは神が見ておるぞ。」

 心で殺すとか心で傷つけると。結局そのう心の状態が形になって現れて出ます。言葉になったり、又はその仕打ちによって、もう相手の心をぐさぐさに傷つけたり殺したりする。いよいよ自分の心の中に有り難い豊かな心、いよいよ神心を心の中に頂いていかねばなりません。いうなら剣のある言葉と、もう一辺ブッスリとぐさっと、心臓を突きさす様な言葉。そういう意味の事だと思います。神様がみてござる、人は知らんけれど、神様が見てござる。
 昨日、研修の時にも話した事でしたけれども、段々信心をさせて頂きまして、本当に自分の出けない事が斬鬼に耐えない。自分のようなつまらんもんがあるだろうかと、まぁ屑の子の自覚のようなものですけれども、屑の子の自覚というのではない。本気で自分というものを自分の心を、まぁいうならば切り刻みするような思い方をする人がある。先日もお知らせに頂いたんですけれども、お不動様というのはこうあれは右手(ゆんで)に剣(つるぎ)というか、右手ですかねこう刃をもってござる。
 かた一方にはこうやってその縄を持つ、駁するわけですね。そしてそのうそれこそいう事をきかんと殺すぞといった様な、なんちいうんですかねなんとか『さつ』といいますね。そのお不動様がその刃を剣を自分の心、心臓部にこう向けておられる様なお知らせを頂いたんです。これはね自分を殺すという事、そりゃ自分というものを深く見つめて、自分のような汚い自分のような恐ろしい、自分のような浅ましい者があるだろうかと、まぁ信心によってわからせられる。
 そしてそこん所をもう頭を抱えこむようにして、まぁ神様にお詫びして、お詫びをしてもお詫びをしても、やっぱり自分の心の改まりが出来ない為に、いや自分のような者ではおかげは頂けんと決めてしまう。非常にこの謙虚になって、お詫びをするという事によって、その姿勢はそうですけれども、不思議にやっぱしおかげは受けられないです。自分の心を切り刻みするから。だからここはひとつ親神様の恩情におすがり師て、親心にお縋りして、詫びれば許してやりたいのが親心であると、仰せられるのですから。
 詫びる時に自分の心の改まりの出来ない、そこに本気で一分ずつでも一厘ずつでも、取り組んで改めさせて頂きます、というような信心になってんえ、自分の汚いその心のおかげで、信心が一歩ずつでも進んでいきますという、お礼に替えなきゃ駄目です。詫びはそんなに何辺でもする事はいらん。もう改まってから詫びたらもう一辺でいい。そんなにいつまでも執念たらしゅうに神様が、そのそれを苛めなさるような事はないけれども、自分が自分の心を苛め抜く人があります。自分で自分の心を傷つける人があります。
 そして私はおかげは受けられん、私はおかげは受けられんですんでしまう。信心のおかげ力、徳をうける実に微妙です。私のようにだらしないのはおかげ頂ききらん。そのだらしない事が分ったら一分ずつでも、一厘ずつでもそのだらしない所を詫びて、そして本気でそこを改まってゆく願いをさせて頂いたらいいのです。そして願いある事を頼んだらいいのです。そういういうならば事もございます。人を殺すのじゃなくて自分で自分の心をぐさぐさに切り刻むように自分をこなす人がある。いじめる人がある。
 不思議にそういう心ではおかげが受けられないですね。だから本当に詫れば許してやりたいのが親心という恩情に縋るね。昔聞いた話ですけれど、天理教のある偉いお徳の高い先生が、信者を百人殺したら一人前のお徳が受けられるというような事を、まぁ言われたという事です。けれども私は中々うがった言葉だとおもうですね。信者を殺すというような事でもないでしょうけれども、それこそどうぞ神様のおかげで、無い命でも助けて頂こうと思ってお願いにくる。
 そしてそれが助からずに死んでいくね。その都度にいうならば殺してお徳を受けていくという、力をうけていくという行き方。成程そういうなら百人も殺している中には、いよいよ詫びる所を詫び改まる所は改まりね、いうならば体験が積み上げられてくる。殺す度に力がついてくるという訳なんです。そして自分にもちっと力があったら殺さんですんだのに、自分にもちっと力があったら助ける事が出来たのにと、自分というものを深く見極め見つめて、一段とそれこそ一つ積んでは父の為である。
 一人殺しては徳を積んでいくといった様な行き方に、ならざるを得ませんですね宗教家は。私共でもそうです。もう沢山の人を殺したでしょうけども、殺したたんびに私は力を受けて来た様に思うんです。殺したというと言葉が穏やかじゃないですけれどもね。私に力があれば助かったのにと思う事はいつもあります。だからもう一段と力を頂かねばという事になりますから、百人も殺している内にはですね、やっぱり力もつくお徳もつくと言うことになりましょうね。
 信心は私はその都度都度に、自分の信心を高めてゆくいわゆる難あって喜べというのはそうです。難は霊験というのもそうです。何かがあったたんびに、例えば合楽教会の場合をいうと、やはり御比礼は例えば普通では信心しよっていて、どうしてあんな事がといういわれる事もありますけれどもね。これはそれによって力を受けなかった、又次の繁盛になっていかん。信心しているけれどもこんな事がおこって、と信心を落としていけば、やっぱりそのままのものであり、いうなら比礼は落ちていきます。
 自分の心のまぁもうこりゃもう限りない精進ですからね信心とは。殺すとか助けるとかと本当にまぁ穏やかでない言葉ですけれどもね、勿論心で殺すのは神が覧ておるからとこう仰せられますね。これは自分で自分の心をぐさぐさに、切りさいなむような在り方をして、もうお詫びで一生終ったといった様な先生方がいられますけれど、不思議とそういう所では人が助からないですね。自分の様な者がお取次ぎしたって助かる筈がない、といったような、そんなものがそん中に残るのではないでしょうか。
 そういう時にはそれこそ詫びれば許してやりたいという、改まってお詫びをするという。だから改まってお詫びをするたんびに、信心は進んでいく訳ですね。いうならば又は自分の力がなかったから、なら殺すという天理教の先生の言葉じゃないですけれどもね、一生懸命お願いもしたけれども、力がない為におかげを頂かせる事が出来なかった、死にいたらしめたという様な場合ね、自分に力が足りなかったとして、一段と信心を進めてゆく所から、それこそ百人も殺したらお徳が受けられる。
 今日はこの七十五節の芯にはちょっと外れた様に思いますけれども、これはとにかくお互いのいう事しておる事で、人の心を傷つけたりそれこそぶすっと人の心臓、一口で二の句も告がれんような言い方をする、といったような事は人を殺す事になる。傷つける事になる。そういう事では神様はお喜び下さらん。いやそれは神様の、まぁ生きて、いや実際にならそのう人を殺したりするのは。まぁいうならばお上があってそれぞれにお仕置がありますから、罪はほろぼされるような感じがします。
 そこを教祖は仰っておられるのです。けれども心で殺すのは重い罪じゃ。これは誰しも罰する事が出来ん。それを罰せられるのは神様だけ。だから神様が見ておるぞと仰せられる。そういう事で深いめぐりを作るといったような事のない、迂闊にいうならば私共の剣のある言葉が相手の心を傷つけるような事があります。いよいよ心がけねばならんと同時に、そういう言葉を探そうと思うても出ないような、普通でも腹ん立って一口でぱぁっと、こういうてしまいたい様な事がありますけれども。
 段々とおかげを頂いてまいりますと、自分の心の中にむしろ御礼を言いたい心、そういう心をいよいよ高めていかねばならないと思います。そのことがそこを七十五節にはいうてございますけれども、殺すとか殺されないとかいう、又信心の一つの秘訣要諦とでも申しましょうか、信心をしよりゃいよいよ自分が分かってきます。はぁこげな浅ましい、こんな汚い自分では、とても助かるまいとそこまでの信心をすすめながら、それがおかげの受けられない基となる。
 そこは親神様である。詫びれば許してやりたいのが親心と仰せられるのですから、改まって詫びるという行き方、そこから一段と信心を進めていく事が出来る。というあの人はもう医者から死の宣告を受けちゃるとじゃから、お願いして助かりどんせんなら、いうならまぁ馬鹿らしいからといった様な心を起こさずに、いはば医者から死刑の宣告を受けておって、一心の信心をさせてもろうて、死ぬ生きるは別として、縋らずにはおられない神心を作っていかねばいけない。
 昨日ももう本当に当然あのう、もう死の宣告を受けられた、あのう石川さんのご主人ですけれども、戎さん(戎浦さん)の奥さんが勤めとられる病院に入られて、皆んなもそりゃもう義理のですけれども、上滝さんといやぁもうそれこそ、もう一生懸命でお縋りした。しておかげでこれなら助かろうということになり、昨日は親子でお礼に出てみえて、近いうちに退院という。もう本当にない命を頂くね。そういうようなおかげも段々頂けるようにもなるし。
 同時にそれがどうな、一生懸命お縋りしたけれども、いや無駄だったと決して無駄にゃならない。それこそ百人殺していく中には徳が受けられるという位に、それこそ私の信心が足りなかったからと、いう行き方で進んでいくならば、その事を通して徳が受けられる。いわゆる難は霊験である。その事をとうしてこちらが力を受けるということになります。今日は死とか、今日は御神前で大きな字で死ということを頂いたんです。
 あいたこりゃ私が死ぬとじゃろかと思うごたる大きな字で。そしたら今日はこの事でしたから、少し枝葉になりましたけども、いうなら信心の要諦、又は進めてゆく手立て、又は成程こういう考えでは神様を悲しませる。又こういう事では神様の手帳のなかに、ちゃんとねお前はいつ人を傷つけたろが、殺しとろがといわれるような亊になってはなりませんので、そんな事を混じえて聞いてもらいました。
   どうぞ。